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2019年 06月 03日 ( 1 )

雑記

今日は島原「いのりの日」なんだそうです。
雲仙普賢岳が噴火し、大火砕流によって多くの犠牲者が出たのがこの日で、その災害を忘れないようにという思いで、島原市が制定したとのことです。
あれはたしか91年。
そんでもってその4年後の95年に阪神淡路大震災。
同じ年の3月には地下鉄サリン事件。

子どもの頃、はっきりと死を意識して恐れていたものと言えば「ノストラダムスの大予言」くらいでしたが、90年代以降、自分が大人になったこともあってか、どこで何が急に起こってどうなるかなんて全くわからない、どこにいても絶対安全はないんだって思い知らされるような出来事を、沢山見聞きするようになりました。

防ぎようがない。
気をつけようがない。

先日起こった通り魔事件にも本当にびっくりしました。
犯人は包丁を2本持って無言で走ってきて、無関係な人たちを次々に刺して、その後あっという間に自分の首を刺して死んでしまったんだそうです。

「周りを巻き込まないで一人で死ねよ」
ってツイートが沢山書き込まれて、それに対して
「そういう書き込みはやめたほうがいい」
って注意する人がいて、またそれに対して
「じゃあ周りを巻き込んでいいって言うのか?!」
という・・・ネット上でそんな感じの応酬があったみたいです。(yahooニュース)

これについて思ったことを今日は書きます。(個人の主観を書きたいだけなので、興味のない方はスルーで)

あの事件が起こった時に、それをニュースで知った私たちにはいくつかの感情が同時並行的に湧いてきたと思うんです。
まず単純にびっくり。驚きの感情。
それから亡くなった方、そして突然大事な人を理不尽に奪われたご遺族の方を悼む気持ち。
その場に居合わせてけがをした子や、けがをしないまでも惨劇を目撃してしまった子供たちの心の傷を心配する気持ち。
犯人に対する怒りの気持ち。
なぜ?と疑問に思う気持ち。
特に子どもを持つ親御さんは、こんなの気をつけようがない、でもこれから毎日100%子どもにつきそって…なんてことも現実的ではないし、、、という、恐怖と不安と葛藤。
などなど。
様々な混乱した感情。
それと、なぜ?という疑問から、今後こういう理不尽な犯罪をなくすにはどうすればいいのか?ということを考えた人も、きっと多かったと思います。


「周りを巻き込まないで一人で死ねよ」
って、いうのは、犯人に対する怒りですよね。これ、多分、犯人が自殺したって聞いた時、結構多くの人がつい思ったんじゃないかと思うんですよ。実を言うと私も思いました。もうほとんど反射的に思った、という感じで。
どうせ死ぬんだったら自分ひとりで死ねばいいじゃん。なんで他の人を巻き込むの?!って。
それを、テレビを観ながら家族に言う分には特に問題ないのかな、って思います。
友達と会ったときに会話の中で、とかも。
理不尽な殺人事件を起こした犯人に対して、怒りを覚えるのは当然のことだし、その感情は吐露したくなる。わかる。

ただそれを全世界発信することは、ちょっと考えた方がいいのかもしれない、って思うんですよ。

「そういう書き込みはやめたほうがいい」っていうのは、それなんだと思います(指示語ばっかでわからんわ)。
有名人でもない限り、自分の投稿に「いいね」したりコメントする人ってそこそこ限られているから、つい「身内感覚」で発言しがちですけど、ツイッターもインスタグラムも「全世界発信」なんですよね。鍵かけてないかぎり、誰でも見られる。
例えて言えば、ちっちゃな部室で5人ぐらいの仲間に喋っているつもりのちょっと毒のある話が、実は校内放送、それどころかFMラジオくらいの規模で、あなたを知ってる人にも知らない人にもみーんなに聞かれちゃってますよ、みたいな。
偶然にも聞いちゃった人の中には、喋った人やその仲間とは置かれている境遇も感覚も全然違う人が当然いて、同じ言葉でも全く違った受け取り方をされたり、思いもよらない作用を引き起こす可能性がある。
「死ね」なんて、攻撃的で強い言葉ですから、特に。

こういうことを書くと誤解されるかもしれないですが、犯人の境遇(親を亡くして親戚に引き取られて、そこの家の子どもとは差別されて育ったとか。引きこもりだったとか)がよくメディアで言われていますよね。だからといって犯罪を犯す理由には全くならない。同じような境遇で育った人でも、そうならない人がほとんどだと思います。
で、ですが、もしも同じような境遇で育って引きこもりで苦しんでいる、犯罪者ではない人がいたとして、『ノンフィクション』的なドキュメンタリー番組か何かで取り上げられたとしたら、みんなきっと同情しますよね。そして多分、その人に自分を重ね合わせたりする人もいるでしょう。自分も同じだと。
だとすればもしかしたら、犯人とどこか似た境遇であると自分を重ねてしまう人、今とても苦しんでいて、誰かに助けてほしいけど助けを求められず、もう死んでしまいたいでも本当は死にたくない、というような状態でもがいている人がいたとして、そういう人に届いた時の「一人で死ね」は、もしかしたら発した人の思いとは違った形で突き刺さるかもしれないって思うんです。その人に言ったわけじゃなくても。世の中には自分を助けてくれる人はいないだろうと、社会に適応できないならひっそりと死ねと言われているんだと。
そんな風に、人が周りに助けを求められず、孤独を抱えたまま苦しむ人が増えていく世の中は、多分誰にとっても望むものではないはずですよね。そんな社会が幸福でも安全でもあるはずがないじゃないかって思います。

全世界発信じゃなくても、言葉って、自分では思ってもいないところで人を傷つけている場合があるじゃないですか?
そんなつもりで言ったんじゃないのに、とか、その人のことを言ったわけじゃないのに、とか。まったく自分が意図しない形で意図しない人に受け取られてしまって、困惑した経験のある人は多いと思います。
言葉は、時にヤバいんですよ。特に毒のある言葉は強いですから。


そんな感じのことを「そういう書き込みはやめたほうがいい」って言う人は、言いたかったんじゃないかなあ?
それは、感情の話というより、「今後どうすればいいんだろう?どうすれば防げる?社会はどんなふうに変わっていけばいいのか?」って、そっちの方の話であって。
だからそれに対して「じゃあ周り巻き込んでもいいって言うのか?!」という感情をぶつけても、話が通じ合わなくて当たり前なんですよね。周りを巻き込んでもいいなんて、そんなこと思ってる人がいるわけないじゃん。わかるじゃん。

もちろん怒りの感情が悪いわけではなくて。
誰だってこんな事件は許せないと思っているわけで。
でもその怒りの感情の源泉をたどれば、それは亡くなった方への同情や、愛から来ているのに。
うんうん、って通じ合える人以外に届くときには、ネガティブ感情しか残っていない場合もあるんですよね。
そういう話なんだが。

昨夜テレビを見ていたら、そのツイートに対しての「賛成派」「反対派」を呼んで議論させるみたいなことをやろうとしていた番組があったようなので(見なかったので内容はわからないのですが)、なんか、何を不毛なことをしようとしているんだろうと思って、私なりの考えを書いておきたくなりました。

長い話にお付き合いいただいてありがとうございました。







by vitablommor | 2019-06-03 11:34 | ひとりごと・日常 | Comments(6)

コサージュや布雑貨の製作、販売をしています。 


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